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おかしな魚 |
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“おかしな魚”という単語は文化にという観念に気づいている人のことを指す口語である。これは“水の存在を知っているのはおかしな魚”という諺から来ている。私たちは文化の中に行き、そして文化を運んでいく。魚になるということは、水の存在を自覚していないことだ。おそらく魚達は異なる種類の水でも生きていけるだろう;川の魚が海にいけるように、なにせ水は水なのだから。シラミを取るために水から出た魚はちょっとの間、水の無い世界を体験する。私たちにとって文化に気づくということは、自分自身を文化から切り離して見てみることであり、それが我々を人間としている。 |
私たち自身の住んでいる文化から、少し風変わりで異なった文化に移ることは、文化から出たことにはならずに、ただ違う種類に移っただけである(川と海の水は違うが、両方水なように)。特に我々が価値観や行動を変えたときには、私たちを一風変わった物にする。覚えておいて下さい。私たちは社会学的な文化のコンセプトを使っていると。これは社会と文化のシステム(ただのアートやダンスではない)と同じで、私たちが習う全ての物から構成されていて、これが私たちに人間らしさを与えるのだ。例えば、コミュニティーはいつでも構成されることができる個人としての存在ではなく、社会的かつ文化的な存在である。 |
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